元サッカー日本代表であり浦和レッズで活躍された鈴木啓太さんが自身のYouTubeチャンネルで元日本代表の中村俊輔さんと対談(2021/12/18公開)し、中村俊輔さんのJリーグでのプレイと日韓W杯落選の真実を語っていましたので、その詳細をまとめました。
プロ入りからの活躍と栄光の背番号
1年目で優秀新人賞にノミネート
プロ1年目から活躍し、優秀新人賞の候補3人に選出される。当時アントラーズで2年目の柳沢敦が受賞した。プロ初ゴールはベルマーレ平塚戦で小島伸幸キーパーだった。
背番号への思い入れ
新人時代につけた「25番」は、かつて木村和司さんが新人時代に着けた番号。さらに、同じ寮の部屋に入ることになり、それだけでも光栄に感じ興奮していた。
プロ入り当初、「10番」はプレッシャーが大きいため避けたかった。しかし、3年目の契約交渉時に「10番をどう?」と打診される。一度は断ったものの、取材で木村和司さんと会った際に「自分の色に染めればいい」と言われたことで気持ちが楽になり、最終的に受け入れることを決意。逆に10番を付けたいと思うようになった。
浦和レッズで「9番」は特別な番号
浦和レッズの「9番」は福田正博さんがJリーグで最もVゴールを決めたことから、チームにとって特別な番号。そのため、多くの選手がプレッシャーを感じ、着けることを避けていた。福田自身も、「9番を着ける選手には決定的なゴールを決めてもらいたい」という想いを持っていた。
中村俊輔が語る飛躍の2000年シーズン
ファーストステージ優勝とセカンドステージの難しさ
2000年、ファーストステージ優勝を経験し、22歳でJリーグ年間最優秀選手賞(MVP)を受賞。これは最年少記録であり、圧倒的なシーズンを送った。
2000年、ファーストステージで優勝したものの、セカンドステージはメンタル的に非常に難しい状況だった。「待ち構えていればいい」という考えもあるが、実際にはセカンドステージもうまく戦わなければならず、簡単には勝ち抜けない。結局、年間優勝は逃し、アントラーズに敗れてしまった。
最年少MVP受賞も「チームの力」
それでも、年間最優秀選手賞(MVP)を受賞。しかし、自分だけの力ではなく、周りの選手のサポートがあったからこそだと感じていた。「いくら自分でなんとかしようとしても、MVPは取れるものじゃない」と振り返る。
プレーの手応えと成長の実感
この2年前から徐々に良いプレーができる手応えを感じていたが、「MVPを取ったからといって、最高のプレイだったとは思わない」と冷静に評価。周りに日本代表選手が増えてきて、外国人選手もいてチーム全体が上がっていた。「すべてがうまくハマった年」という感覚だった。
中村俊輔が語る初のA代表招集
初の日本代表A代表に招集
1998年、日本代表A代表に初招集。それ以前に世代別の代表経験はあったが、A代表はまた違う雰囲気だった。初めてのA代表での経験について、特別な緊張感や環境の違いを感じていた。
ワールドカップがある年の1月(1998年)にA代表に初招集。この時点で日本代表のメンバーはある程度固まっており、新しく呼ばれた選手として「チームに溶け込めるか」という不安を感じていた。
日本代表のバスの座席はどこに座ればいいの?
「なんで俺が呼ばれたんだろう?」という驚きもあり、代表のバスに乗る時も戸惑った。すでに出来上がっているチームの中で、どこに座ればいいのかすら分からず、最後に乗り込んでいた。
年齢的にも19歳と若く、すでにベテランや常連組がいる中、周りを気にしながらの参加だったため慣れるまでは大変苦労した。
シドニー五輪・アジアカップの活躍とW杯落選
2000年、シドニーオリンピックでベスト8進出し、同年のアジアカップでは優勝&ベストイレブン選出。ここでの活躍もあり、次のW杯(2002年日韓W杯)出場を強く意識していた。
しかし、結果的にW杯メンバーには選ばれず。これに対して「すごく悔しかった」と振り返る。自分なりに結果を残してきた自負があっただけに、選ばれなかったことは大きなショックだった。
日本中が衝撃を受けた日韓W杯落選
W杯落選を知った瞬間
2000年、シドニーオリンピックでベスト8進出し、同年のアジアカップでは優勝&ベストイレブン選出。ここでの活躍もあり、次のW杯(2002年日韓W杯)出場を強く意識していた。
「W杯に行きたい」と強く思っていたが、落選を知ったのは発表会見だった。そして、実際に電話がかかってきて、「メディアが来ているが、コメントするかどうかは自由」と伝えられる。「待っていても仕方ない、自分の言葉でコメントした方が早く終わる」と思い、メディア対応を決意。
すると、記者たちのカメラのフラッシュが一斉に焚かれ、注目を浴びることに。まるで“ビッグニュース”のように扱われた。
落選のショックと解放感
落選を知った瞬間は、悲しいというより「やっと終わった」という気持ちだった。「W杯メンバーに入れるか」というプレッシャーから解放され、気持ちが軽くなったように感じた。
足りなかったものの分析
半年間、W杯メンバーに入るために色々なことを試し、挑戦してきたが、最終的には「選ばれなかった理由も理解していた」。
- フィジカル面の強さ
強豪国と戦うためにはフィジカルの強さが不可欠だった。
「2010年の南アフリカW杯でもそうだったが、やはり最後に求められるのは“戦える選手”だった」と振り返る。 - ベンチでの役割
短期決戦では、試合に出るだけでなく「ベンチの雰囲気を盛り上げること」も重要な要素になる。しかし、自分は表に出るタイプではなかったため、そこも考慮されたのではないかと分析。
2010年W杯への成長へ
2002年の悔しさを経て、2010年のW杯では「チームの雰囲気作り」の重要性を理解していた。経験を積む中で、自分の役割を見つめ直し、より貢献できるようになっていた。
日韓W杯落選後に韓国へ逃亡?
フランス代表は前回大会(1998年)で優勝しており、今回も優勝候補と見られていた。しかし、ジダンが怪我で欠場の影響で大会が始まると様子が一変。
ジダンがいないだけでチームの雰囲気が全く違っていた。「気持ちが全然入っていないように見えた」と感じていた。
そして、開幕戦でセネガルに敗北。さらに、3戦目ではようやくジダンが出場したが、時すでに遅し。結局、フランス代表はグループリーグ敗退という大波乱となった。「やっぱりW杯は特別なもの」と改めて実感。
雰囲気作りの重要性も再認識し、「チームの士気が結果に大きく影響する」ことを肌で感じた。
中村俊輔との初対戦で受けた衝撃
鈴木啓太は、2002年の開幕戦でマリノスと対戦し、その試合で俊輔と初めて対戦したことを鮮明に覚えている。
「こんなに体をぶつけられない選手がいるのか」と驚き衝撃を受けた。俊輔はすでに次のプレーをイメージしながら動いていた。自分がボールを奪いに行っても、すでに俊輔は次の動きに移っており、簡単に交わされてしまった。
「最初の印象だったからかもしれないけど、本当にすごい選手だなと思った」と振り返る。
当時のマリノスの強さ
俊輔がイタリアのレッジーナへ移籍する直前のマリノスは、強力な選手が揃っていた。その年、俊輔が移籍するまで一度も負けることなくマリノスは首位だった。「こんなに強いチームなら、優勝してもおかしくない」と感じるほどの戦力だった。
以上「鈴木啓太チャンネル」まとめでした。中村俊輔さんの対談は#5まで続きますので、ご期待ください。
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