【鈴木啓太ch・中村俊輔対談#4】セルティック移籍の真相と2度のワールドカップで得たものに言及‼その詳細をまとめ

元サッカー日本代表であり浦和レッズで活躍された鈴木啓太さんが、自身のYouTubeチャンネルで元日本代表の中村俊輔さんと対談(2021/12/25公開)し、中村俊輔さんのセルティック移籍の真相と2度のワールドカップで得たものを語っていましたので、その詳細をまとめました。

もくじ

セルティックに移籍を決めたきっかけ

当時所属していたレッジーナは、セリエA残留を目標に戦うチームだった。戦術的にも、8〜9人で守って2人でカウンターというスタイルで、ハマる時があればずっとディフェンスの時もあった。3年間プレーしたが、「そろそろ違う環境でプレーしてみたい」という気持ちが湧いてきました。

とにかくレッジーナを出たい

セリエAの他のクラブでもよかったが、違う景色を見たいという思いもあり、代理人にいろいろ探してもったが、移籍金が高かったこともあって、簡単には決まらなかった。

そんな中でセルティックがオファーを出してくれた。セルティックの存在は知らなかった。ユニフォームの色さえ分からなかった。でも、毎年チャンピオンズリーグに出場しているクラブというのは分かっていた。

正直、「そんなに選んでいる場合じゃない」とも思っていたし、何よりレッジーナを出たい、挑戦したいという気持ちが一番大きかった。

スコットランドの名門:セルティックとは?

スコットランドではレンジャーズと2強だった。リーグで優勝したからといってチャンピオンズリーグに出れるのではなく、プレーオフで2回くらい勝つ必要があった。

移籍した年は自身が登録している間にチームがプレーオフで負けてしまい「何のために移籍したんだろう?」って正直思った。でも、割り切って、早くチームに馴染んで頑張った。

最初はダイヤモンド型のトップ下でプレーした。自分のパフォーマンス自体は悪くなかったが、チーム全体のバランスが少し悪いと感じていた。4-4-2に変更されて、自分は右サイドにポジションを移した。そのあたりから、だんだんチームとしても形がハマっていった。

その頃のメンバーも良かったし、監督やスタッフも優秀だった。2002年のときの日本代表のように、良い選手が集まった感じがあった。その流れが4年続いた。

スコットランドリーグと日本人の相性

スコットランドリーグ自体が日本人に特別向いているとは思わない。ただ、ドイツなどと同じように、フィジカルが強い選手が多い中で、日本人のようなアジリティ(敏捷性)のある選手は目立ちやすいのかも。

グラウンドの状態があまり良くないところも多いし、雨も多い。そうなると、自然とロングボールの展開が多くなりがち。でも、最近試合を見ていると、ビルドアップの意識が高くなってきていて、キーパーまで下げてパスをつなぐ場面も増えてきている。だから、僕がプレーしていた頃と今とでは、単純には比較できない。

マンチェスター・ユナイテッド戦のフリーキック

あれは「蹴るしかない!」と思って蹴ったやつ。フリーキックは決めてこそ価値があるものだから。決めた後は、「次も決めないと」っていうプレッシャーもあったけど、それがまた楽しかった。

欧州でも認められたフリーキックの極意

外国人選手の壁はでかいし、ちょこちょこ前に出てくる。イタリアではそういうフリーキックには慣れていた。最初に少しボールを下げるし、審判にもアピールする。でも相手も審判の言うこと聞いてくれないから、笛が鳴ったらすぐに蹴る。

だからイタリアに比べると、スコットランドもそうだけど、チャンピオンズリーグは特にしっかりしてるから、フリーキックはやりやすかった。

欧州最高峰 UEFAチャンピオンズリーグ

チャンピオンズリーグの雰囲気は全然違う。まったく別物。

セルティック・パークは6万5000人くらい入るし、ホームでは「絶対勝てる!」っていう空気がある。でも、アウェーに行くと逆に「これは絶対勝てない」と思わされるような雰囲気になる。

空港に着いた瞬間から、もうアウェーが始まる。移動中のバスにもプレッシャーをかけられる。スクーターに乗った現地の兄ちゃんたちがずっとついてきたり。夜はホテルの前で騒がれて寝かせてもらえなかったり。

ベンフィカとよく戦ったけど、ホームでは3-0で勝っていたのに、アウェーでは0-3で負ける、そんなことが普通に起こる。ホームでの試合では、堂々とプレーできていたのに、アウェーではみんな縮こまって、ロングボールばかり蹴るようになる。「ボールちょうだいよ」って言っても、みんな怖いんだよね。

ホームのチームの勢いが凄まじいし、サポーターの後押しもあって、相手の勢いもまるで別のチームのようになる。Jリーグでは絶対に経験できない雰囲気。

レベルの高さを痛感したスペインリーグ

イタリアに行く当時から、スペインでやりたいという気持ちはずっとあった。行ったらやはりレベルが高かった。日本人にはおすすめできない。

アジリティや戦術理解度、そしてフィジカルも高い。ずる賢い、ハードワーク、すべてが求められる。だからこそ、日本人選手にはどんどんチャレンジしてほしい。たとえ結果が出なくても、仮に2部リーグでプレーすることになっても、サッカー人生においてはそれぞれの幸せや充実があるが、そういう経験から得られるものは大きいと思う。

エスパニョールでは半年しかプレーできなかったけど、その半年が一番濃かった。得るものがあった。あの環境でプレーすれば確実に上手くなるけど、同時に自信もなくなると思う。でも、たとえ2部リーグでプレーすることになっても、それは成功だと思う。

2010年のW杯イヤーに国内復帰を決めた理由

やっぱりワールドカップに出るためには、プレー時間をしっかり確保しなければいけないと思っていた。当時、29歳くらいで、「そろそろ日本に戻るタイミングか」とも感じていた。

スタメンからベンチとなった南アフリカW

分岐点の一つだった。地獄のように感じたし、今までで一番きつかったかもしれない。それまでずっと10番を背負って、中心ではないにしてもチームの一員としてプレーしてきた。でも、足首の調子がなかなか上がらなくて、直前の韓国戦では負けてしまった。

試合後、宿舎に帰って、次の日にミーティングがあった。その時、岡田監督が「もう切り替える」と言っていて、晴れ晴れとした表情をしていたのが印象的だった。それを見たとき「あ、もう外されたんだな」と感じた。

合宿地に行って、チームは速攻の練習を本格的に始めていた。自分はリハビリがあったので、合流が遅れてしまった。「ああ、もう遅れちゃったな。これは取り返せないな」と思った。

でも、そこで腹をくくった。みんなが午前練習だけのときに午後も自主練を続けて、フィジカルを上げるためにトレーニングを積んで、自分なりにもがいていた。

サポート役に徹した南アフリカW杯の想い

2002年のワールドカップで悔しい思いをしたこともあったし、人間性の部分を試されるのは、まさにこういう状況なんじゃないかと思った。チームに戻って、たとえ試合に出られなくても、味方を鼓舞し、大声で励ますことが自分の役割になったんです。

夜な夜な川口能活さんが来てくれて「俊輔もきついと思うけど、演じてでもやろう」と話してくれた。「ベンチのメンバーであっても、スタメンで出ている選手よりも明るく振る舞い、練習でハードワークすることで次につながるから」と、わざわざ声をかけてもらって。自分なりにやっていたつもりだったが、さらに気持ちを入れ直した。

ワールドカップでは試合に出られなかったけど、そこで学んだことは計り知れないものがあった。正直、地獄のような時間だったけど、試合に出ていた選手以上に得たものがあったかもしれない。

W杯の挫折をバネに次の戦いの準備へ

試合に出れない時に、選手は試合が終わってシャワーを浴びてるけど、悔しいけど会場で走るしかなかった。試合に出ていないから、悔しいから走りたくなる。

ファンの人たちからは「もう試合終わったぞ」とか言われるけど、そんなのは関係ない。もう次の戦いは始まっているだから。

そんな中で、自分が走っていると、今度は森本が来て、岡崎が来て、一緒に走り始める。メンタルを強く持っている選手が周りにいたのも本当に助けられた。そこからまた新しい挑戦が始まっていったんだなと思う。

悔しさとか、挫折とか、そういうものは本当にたくさん経験した。そして2013年のJリーグMVPへと続く。

以上「鈴木啓太チャンネル」まとめでした。中村俊輔さんの対談は#5まで続きます。

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