【都市伝説・コヤッキースタジオ】ケネディ大統領暗殺の謎がついに公開。長年謎に包まれた機密文書がヤバすぎる…について言及‼その詳細まとめ

都市伝説やオカルト、歴史ミステリーなどをテーマにした人気YouTubeチャンネル「コヤッキースタジオ」が、「ケネディ大統領暗殺の謎がついに公開。長年謎に包まれた機密文書がヤバすぎる…」について言及していましたので、その詳細をまとめました。

もくじ

都市伝説ファン待望の瞬間──“ケネディ暗殺”の全容が明らかに?

都市伝説ファンにとっては、待ちに待った時が来たんじゃないでしょうか。
長年多くの謎に包まれていた、第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディ氏の暗殺に関する“すべての文書”が、ついに本当に公開されました。

ジョン・F・ケネディの暗殺って、ただの事件というよりも、もはや“都市伝説”といっても過言ではないと思うんです。もちろん、実際に起こった悲惨な事件ではあるんですが、その後、いろんな作品などにも陰謀として登場したりしますよね。僕の大好きなルパンの映画にも出てきたりして。

この陰謀論って、アメリカだけじゃなく、日本を含めた世界中で、さまざまな想像や憶測を生んできたんじゃないかなと思っています。

黒塗り廃止、全文書公開へ

そしてなんと、日本時間の3月19日の朝、トランプ大統領の大統領令によって、これまで黒塗りだった部分も含め、まだ公開されていなかった“すべての文書”が公開されることとなりました。

大統領令で黒塗り廃止の上で公開されるなんて、本当に歴史的な一日だと思います。

ちなみに、ケネディ大統領暗殺に関する文書は、今回の公開までにすでに97%が公開されていました。ただ、その一部が黒塗りだったり、「残りの3%にこそ、実は真実が書かれているのではないか」といった声が強くあり、全文書の公開が求められていた背景があります。

8万ページに挑む──現時点の分析と“僕たちの考察”

そして今回公開された全文書は、なんと8万ページ。できる限り翻訳をかけたり調べたりしていますが、今回お届けする内容には、現時点で分かっていることに加えて、僕たちなりの考察も含まれています。あらかじめご了承ください。

否定できないCIAの関与

1. ケネディ暗殺とオズワルドの謎

まず、ケネディ大統領暗殺に関しては犯人がいる。一応犯人は捕まったので、事件は解決したとされている。その点をまず説明する。

犯人はリー・ハーヴェイ・オズワルド
オズワルドは1963年11月、テキサス州ダラス市内をパレードしていたケネディ大統領を狙撃し、事件から約1時間後に逮捕された。
スピード逮捕である。このパレードの映像は世界中の誰もが一度は見たことがあるだろう。

ところが、オズワルドは「自分ははめられた」「身代わりにされた」と捜査官に語っていたとも言われている。
逮捕から2日後には、警察署の地下駐車場で射殺された。これにより事件の背景は分からなくなってしまった

調査会はオズワルドの単独犯として事件を結論付けたとされている。最初から単独犯と決められていることに疑問を抱く声もある。

日本でも冤罪で捕まってしまい、後に冤罪が証明されるケースは存在する。
オズワルドも1時間後に逮捕され、翌日には射殺されていたことから、証拠が消されたり、捜査が混乱していた可能性は高い。

ケネディ大統領暗殺には、オズワルドの発言以外にも数々の不審点があり、さまざまな陰謀論が生まれている。

CIA主犯説と内部対立の構図

その中で最も有力な説が、CIA主犯説である。
CIAはアメリカの中央情報局であり、世界有数のスパイ組織とも言われている。

そんなCIAがなぜ自国の大統領を暗殺するのか。その動機は謎だが、関係者の証言から見えてきた構造がある。
大統領が変わるたびに、CIAの担当者も変わる。当時の大統領しか知らない情報が多いため、それに合わせて担当も交代する。

つまり、大統領ごとにCIA内の情報も異なり、派閥や対立が生まれる土壌があった。また、どこかのスパイが入り込んでいたという説や、派閥争いがあった可能性も否定できない。

今回公開された文書により、CIAが主犯だったという証明はされていない。しかし、いくつかの文書からは、CIAが暗殺計画を事前に知っていた可能性が浮かび上がっている。

替え玉の存在や、陰謀が憶測を呼ぶように仕組まれていた点からも、素人の犯行とは考えにくい。プロの手による計画であると見るのが自然である。

公開文書が示すCIA・FBIの関与

CIAはケネディ大統領暗殺事件の約2か月前からオズワルドを危険視し、監視していた。
1960年頃には、オズワルドがヘルシンキを経由してソ連に入国していたことも把握しており、当時アメリカと敵対関係にあった国家との接点もあった。
CIAはこの時点で、オズワルドにスパイの疑いがあるという記録を残している。

また、オズワルドは暗殺事件直前にキューバ大使館を訪れていた。冷戦下でアメリカと敵対していたソ連やキューバとつながりがあった可能性がある。スパイとして暗殺を実行していたという説も存在する。

それほどの人物が、狙撃からわずか1時間で逮捕されるとは考えにくく、不可解な点が多い。
さらに文書には、キューバでCIA職員または関係者と接触した可能性が示されているが、何の目的で、誰と会っていたかまでは記録がなく、暗殺後にその部分が削除された可能性もある。

つまり、CIAが暗殺計画に関与していた疑惑は否定できず、少なくとも事前に知っていたことは確実だと読み取れる。

加えて、CIAだけでなくFBI(連邦捜査局)もオズワルドを危険人物として監視していたという文書が存在する。CIAにもFBIにも注目されていた人物が、なぜ暗殺のチャンスを得られたのかという点も不可解である。

FBIは事件の1か月前に、ケネディ大統領に対する暗殺計画の可能性を報告していたことが分かっている。つまり、政府も何らかの情報を持っていたが、それが結果に結びつかなかった。大統領のような要人に対して、物理的に接近できたこと自体が異常である。

一方で、CIAには暗殺計画を政府に報告したという記録は残っていない。この“記録の欠落”は何を意味しているのか。そして、CIAの事件関与を疑う最も有名な文書が存在するという。

それがこちら──

アンダーヒルの文章

この文章は、CIAの職員だったゲイリー・アンダーヒルの死について触れたもの。
アンダーヒルはCIAの創設期に職員として関わり、軍事戦略や諜報活動の専門家として知られた一流のスパイである。

彼はケネディ暗殺事件の約半年後、1964年5月8日にニューヨークの自宅で死亡している。
発見時、銃弾が頭の後ろから口元にかけて打ち込まれていた状態だった。つまり、明らかに他殺と思われる状況だったが、調査の結果は自殺とされた。

この「後ろから前へ」という銃弾の方向から見て、自分で撃つのは極めて不自然である。

暗殺を知っていた男の警告と恐れ

アンダーヒルの文章によれば、ケネディ暗殺の翌日、彼は急いでワシントンを離れ、夜遅くニュージャージー州の友人宅を訪れたと記録されている。その際、アンダーヒルはかなり動揺した様子で、
CIAの小さな派閥が暗殺に関与しており、自分はそれを知っている。命の危険があるため、アメリカを離れなければならない」と打ち明けている。

さらに、CIA内部の一部エリートが、銃・麻薬・その他禁止品の密輸によって資金を得ており、彼らが暗殺を計画したとも記されている。また、この時アンダーヒルは酒に酔っていなかったことも明記されており、冷静な状態での発言だったとされる。

組織の中にはまともな人間もいるが、立場や権力を利用して悪事を働く者が存在するということを、彼は明確に意識していた。ただ、この話を聞いた当時の友人は、CIAのような国家組織がマフィアのような行動をするとは思わなかったと証言しており、当時の常識では信じがたい話だったようだ。

死の状況に残る数々の矛盾

アンダーヒルの死についても不可解な点が複数ある
彼は左耳の後ろから撃たれていたにも関わらず、拳銃は左側に落ちていたとされている。しかし、彼は右利きであり、自殺だとしたら左手で撃つのは不自然である。通常、自分の死を確実なものにするなら、利き手を使うのが自然であり、わざわざ非利き手を使う理由がない

このように文書をひとつひとつ読み解いていくことで、さまざまな場面にCIAの影が見え隠れしてくる
では、本当にCIAが暗殺を立てたのか?──さらに別の文書を見ていくと、今度は別の組織の存在も浮かび上がってくる。陰謀の構造は、さらに複雑に絡み合っている。

連携した2つの諜報組織

モサドとCIAの連携が明らかに

その国の名前は「イスラエル」である。文書には、CIAがイスラエルの諜報機関「モサド」に対して、暗殺に関する情報機密解除や公開について異議を唱えないという内容が記されている。

モサドは、世界でもトップクラスの暗殺組織・スパイ組織とされている。今回の文書公開によって、CIAとモサドのつながりが当時から存在していたことが明らかになった。これはこれまで“陰謀論”とされていた領域が、実は事実だった可能性を示している。

CIAとモサドが連携関係にあったことが文書によって証明されてしまったのだ。

ケネディとイスラエル──核をめぐる対立

なぜここでイスラエルが登場するのか。実は、ケネディ大統領は就任当時、イスラエルとの間に深刻な問題を抱えていた。それが「核の保有」に関する対立である。

当時は冷戦の真っ只中。アメリカ(民主主義)とソ連(社会主義)が世界の覇権を争い、一触即発の状況にあった。核ミサイルによる戦争の危機は、常に現実として迫っていた。

そのためアメリカは、これ以上他国が核兵器を保有することを望んでいなかった。ところが、1960年代に入り、イスラエルはフランスの協力を得て原子炉の建設に着手する。

この動きを受け、ケネディ大統領は核開発阻止のために強く圧力をかけ始める。1961年5月、当時のイスラエル首相ダビッド・ベングリオンに対して、原子炉の査察を受け入れるよう要求。
さらに1963年5月、暗殺の半年前には、より厳格な査察を求める書簡を送っている。

ケネディはイスラエルの核武装に強く反対する姿勢を貫いていた。当然、イスラエル側はこれを快く思わなかった。
アメリカが核を持っていて、なぜイスラエルは持ってはいけないのか、という不満が生まれていた。

1960年代の中東は、パレスチナ解放機構の結成、周辺国からの攻撃の激化など、極めて不安定な状況にあった。イスラエルは将来的な中東戦争に備えて、軍事力を増強していた最中である。
核の保有は、自国の安全保障にとって極めて重要な戦略だった。

実際、1967年には第三次中東戦争が勃発している。そうした状況下において、ケネディの核査察要求は、イスラエルにとって非常に厄介で“目の上のたんこぶ”だった。

利権と代理実行──CIAとイスラエルの暗殺動機

イスラエル側の動機は「核査察による圧力」。

では、CIA側にはどういった動機があったのか。

世界情勢が大きく影響する中で、CIAがケネディ暗殺に関与したとされる理由には、いくつかの説がある。
先に触れたアンダーヒルの証言が真実であれば、CIA内で利権を握っていた一部エリート層が、イスラエルをそそのかし、暗殺を実行させた可能性も考えられる。

CIA自身は手を下さず、ケネディに恨みを持つ相手に依頼。その見返りとして金銭や武器などを提供し、結果的に自分たちに有利な方向に政治を動かす── そうした代理実行型の工作が行われていた可能性がある。

陰謀ではなく、現実的な“戦略”として実施されたという可能性が、徐々に浮かび上がってきている。

キューバを巡る数々の意見の衝突

最も有力視されているケネディ暗殺の動機として挙げられるのが、キューバを巡る数々の政策的な衝突である。
1960年代のキューバといえば、カストロ政権。社会主義体制を敷き、ソ連と同盟し、アメリカと敵対する外交方針をとっていた。

キューバはアメリカのすぐ近くにあり、その存在はアメリカの安全保障にとって重大な問題だった。
そのため、アメリカはカストロ政権の打倒を画策し、代表的なものが1961年の「ピッグス湾事件」である。

この事件は、アメリカのCIAが支援した亡命キューバ人部隊がグアテマラで訓練を受けた後、キューバに侵攻し、カストロ政権を転覆しようとした作戦だった。「ピッグス湾」とは、彼らが上陸・侵攻した場所の地名に由来する。

だがこの作戦は失敗し、ピッグス湾に閉じ込められた部隊はカストロ軍により壊滅。114名が戦死し、捕虜は1189人に及んだ。

この作戦においてCIAは、アメリカ軍の空爆支援を要請したが、ケネディ大統領は軍の直接介入を拒否。結果として支援部隊はわずか72時間で全滅した。

キューバ危機

さらに翌年、1962年10月にはキューバ危機が発生。アメリカはキューバ国内にソ連製ミサイルが配備されていることを確認し、緊張が頂点に達する。

キューバはアメリカ本土に極めて近いため、ソ連製核ミサイルの存在は国家的脅威となった。キューバがミサイルを発射すれば、報復としてミサイルを提供したソ連と応戦し、世界核戦争に発展しかねない状況だった。

ケネディ大統領は軍事行動ではなく、外交交渉による解決を選び、「アメリカがキューバに侵攻しない」という条件のもと、ミサイル撤去に成功した。
だが、CIAは軍事介入を主張し続けており、ここでもケネディとCIAの対立が明確になった。

カストロ暗殺計画とCIAの苛立ち

アメリカ政府は、反カストロ派の亡命キューバ人たちをフロリダのマイアミを拠点に訓練し、カストロ暗殺を含む政権転覆を計画していた。これらの記録は文書にも残されている。

しかしケネディ大統領は、「カストロは倒さない」という明確な方針を打ち出す。これがCIAにとっては決定打となり、ケネディを「裏切り者」と見なした可能性が高い。

大統領直属の情報機関であるはずのCIAが、なぜここまで独自の意志を持ち、対立姿勢を強めていったのかは大きな謎である。

公開された文書には、CIA本部内のメモとして、「ケネディの対キューバ政策は国家の利益を損なう」という記録も残されている。また、一部のCIA幹部が政策変更を望んでいたという内容も確認されており、両者の衝突は確実だったとされる。

さらに、ケネディ大統領は1963年(暗殺された年)にCIAを解体する意向を示したとも言われており、これが実行されれば、CIAにとっては組織の存続すら脅かされる状況であった。

当時からケネディは、従来とは異なる改革的な政策を打ち出すことで知られていた。その中にCIA解体という動きが含まれていたのであれば、組織防衛の観点から排除を計画された可能性もある。

モサドとの連携と暗殺実行の筋書き

こうした背景から、CIAはケネディ大統領の排除を検討したとされている。そして、共通の敵(ケネディ)を抱えていたイスラエルとCIAが手を組んだという可能性が浮上する。

モサドとCIAは、すでに連携関係にあったことが公開文書で明らかになっている。その中で、ケネディ暗殺という共通目的を持つ両者が協力し、極秘裏に暗殺計画を進めたという筋書きは、理屈の上では非常に整合性がある。

それでも残る謎

真相の核心に迫るはずだった全文書公開

僕たちが全文書公開によって本当に知りたかったのは、「状況の説明」ではなく、明確な結論だった。つまり、「犯人は誰だったのか」。それこそが一番重要なポイントである。

だが、現時点ではその結論には至っておらず、証拠が隠蔽されている可能性すら残っている。多くの謎が闇に包まれたままなのは、特に暗殺現場で起きた数々の不可解な点が未解明であることに原因がある。

その代表例が、いわゆるマジック・バレット(魔法の弾丸)である。
調査報告によると、オズワルドが発砲した3発のうち1発が、ケネディ大統領とテキサス州知事コナリーの2人を同時に貫通した
とされている。

弾丸の経路は、ケネディの背中から入り、喉を通って前にいたコナリーの背中に命中し、右胸を貫通し、肋骨を骨折、さらに右手首の骨を砕き、最終的に左太ももに止まったという説明である。

物理的に非常に不自然であり、多くの専門家からも「そんな弾道は不可能」という意見が出ている。
そのため、「複数の狙撃ポイントがあったのではないか」という疑念が根強く残っている。

単独犯説を支える不自然な捜査記録

今回の文書公開によって明らかになったのは、CIAだけでなくFBIもまた、事件をオズワルド単独犯に見せようとしていた形跡があるという点である。

CIAの文書には、事件数日前に「オズワルドが当日単独で行動する可能性がある」と記されていた。さらに事件後、CIAとFBIはオズワルド以外の関与を排除する方針で捜査を進めていたと記録されている。

ダラス警察の無線記録には、複数の発砲音を聞いたという報告が多数あるにも関わらず、CIAとFBIはこれを「誤認情報として処理するよう指示」していた記録が残っている。

一人の暗殺者に全てを委ねるのは、作戦として不安定である。狙撃に失敗する可能性や、大統領の姿勢や動きが変わる可能性を考慮すれば、複数人による同時狙撃の方が合理的である。

それにも関わらず、「オズワルドの単独犯説」に固執した背景には、真実の隠蔽があった可能性が高い。

不審な対応と改ざんの可能性

さらに、暗殺当日の大統領周辺の行動にも不自然な点が見られる。暗殺直前、シークレットサービスが車から離れるように指示を受けていたという情報がある。

実際の映像には、シークレットサービスが不満や疑問を示すように手を挙げる様子も映っており、「何が起こっているのか分からない」という反応をしていたとされている。

加えて、ケネディ大統領が撃たれた後、その遺体はテキサス州での検死を受けずにワシントンD.C.へ即座に移送された。この対応によって、遺体の写真やX線画像が後に改ざんされたのではないかという疑いが生まれている。

事件現場で診察を担当したダラスの医師は、大統領の後頭部に大きな銃創があったと証言しているが、その傷は公開された写真には映っていなかったという。

これらの数々の不審点が、今回の文書公開で1つ1つ解明されるのか。
それとも、真実は依然として闇の中に隠されたままなのか──引き続き注目される。

以上「コヤッキースタジオまとめでした。

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