【鈴木啓太ch・中村俊輔対談#1】中村俊輔が語るサッカーの出会いから横浜マリノス入団の決め手について対談‼その詳細をまとめ

元サッカー日本代表であり浦和レッズで活躍された鈴木啓太さんが自身のYouTubeチャンネルで元日本代表の中村俊輔さんと対談(2021/12/17公開)し、俊輔さんの幼少期から高校時代、プロに加入するまでを深堀り対談していましたので、その詳細をまとめました。

もくじ

日産ジュニアユース加入のきっかけ

幼少期とサッカーとの出会い

地元のクラブチームに小学生の時に入ったのが本格的なサッカーとの関わりだった。小学4年生の頃、「日産プライマリー」という強いチームが突然できて、それまで駒林FCなどの強豪チームがあった中で急に頭角を現した。そのチームが神奈川県の大会でも優勝し、「ジュニアユース」というものがあることを知った。当時はまだプロのJリーグがなく、中学生のサッカーといえば「部活」という考え方が主流でしたが、クラブチームという新しい選択肢ができた時期でもあった。

自分が小学6年生の頃には、ヴェルディやフリューゲルスのジュニアユースチームができ、多くの選手がセレクションを受ける時代になった。ちょうどその頃、「横浜選抜」に選ばれた経験があり、その監督が日産プライマリーの樋口監督だった。監督に「お前いいぞ」と声をかけてもらい、日産プライマリーのセレクションを受けることになった。

日産プライマリーのセレクション

日産プライマリーのセレクションには500人ほどの選手が集まったが、合格できるのは10人ほどだった。最初は不安もあったが、選考のメインは試合形式だったため楽にできた。

当時はまだ世界の有名選手のプレーを映像で気軽に見ることができる時代ではなかったので、明確な憧れの選手がいたわけでもなく、目標もなかった。

中村俊輔が語る日産ジュニアユース時代

ベンチ入りと苦悩の時期

ジュニアユース時代は2年連続全国大会優勝したが、中学2年生の頃、試合に出られるのは限られた数人で、自分も2回ともベンチだった。「中3ではレギュラーになれる」と思っていた。しかし、中3になると実際にはベンチ、さらにはベンチ外へと追いやられることになった。

身長も低く、身体能力も特別高くなかった自分は、当時「いなすプレー」が得意だと思い込んでいた。ヒールキックや見ないで出すスルーパスなど、技巧的なプレーを過度に意識していたが、チームが求めていたのは「テンポの速いパス回しと連動した動き」。自分はそのスタイルに適応できていなかった

その結果、試合から外され、全国大会でチームが優勝した時も、メンバーとして試合に出られなかった。

悔しさと屈辱

全国大会の決勝戦では、ベンチにすら入れず、フィールドの外から試合を見ていた。優勝の瞬間も、チームメイトが喜ぶ中、自分は複雑な気持ちでいた。メダルをもらう時も、みんなが前を向いている中で、自分はうつむいてずっと下を向いていたのを覚えている。

その後の祝賀会にも気持ちがついていけず、宿舎を抜け出してしまったようだった。実際には、外で泣いていたらしい。自分でもその時の記憶があまりなく、コーチやチームメイトに「探したけどどこにもいなかった」と言われた。その時、あるコーチが自分を見つけ、こう言ってくれた。

「お前の悔しい気持ちは分かる。ただ、泣き止んだら一緒に祝賀会に戻ろう。」

この言葉で、自分は我に返ることができた。もしその時に厳しく怒られていたら、もしかしたらサッカーをやめていたかもしれない。

中村俊輔が語る桐光学園入学の決め手

進学の決め手

このままではユースに上がれないと判断し、高校はクラブではなく、強豪校を目指すことを決めた。自分で動いて桐光学園や他の学校の選択肢を探し、最終的に桐光学園への進学を決めた。

1つ上の先輩が桐光学園に進学しており、その先輩には小学生の頃からお世話になっていた。「あの人が行くなら間違いない」と思い、桐光学園への進学を決意した。先輩とも電話でやり取りをしながら、最終的に自分の判断で進学を決めた。

高校サッカーの洗礼

入学後、1年生の頃から試合に出ることを目標にしていたが、最初の1年は「ボール拾い」からのスタートだった。当時のグラウンドはまだ人工芝ではなく土のグラウンドで、しかもラグビー部と半分ずつ使う環境。1年生には自由に練習できるスペースすらなかった。

上級生の指導のもと、ボール磨きやグラウンド整備などの雑用が課される毎日だった。特にボールは濡らして磨くと重くなるため、つばで磨くのが習慣。しかし、自分はそれに抵抗があり、代わりに甘いパックジュースを飲んで唾を垂らして拭くなど工夫しながら取り組んでいた。

この経験を通して、道具や環境の大切さを学び、徐々に部活動の規律や上下関係にも慣れていった。

成長への決意と自主練

中学時代の「勘違い」や「ふてくされてしまった経験」があったため、高校では同じ過ちを繰り返さないと決意した。そのため、朝練には自主的に参加し、コーナーリフティングなどの練習を先輩と一緒に行った。

また、上級生のキープ力やプレースピードに圧倒され、1対1の守備やボールの奪い方を徹底的に磨くことを意識した。この時期から、サッカーへの意識が変わり、本気でプロを目指すようになった。

選手権での経験

高1の時、チームにメンタルトレーナーが付き、「ノートを取りながら学ぶ」ことが重要だと教えられた。そして、全国高校サッカー選手権では、自分もピッチに立つことができた。決勝戦では惜しくも敗れてしまったが、この経験がさらに自分の成長の糧になった。

中村俊輔が語る高校サッカー選手権

高校1年生での悔しさと変化

高1の時は試合に出られず、応援する立場だった。それがとにかく悔しくて仕方なかった。でも、その悔しさをバネに頑張るしかなかった。

ところが、高2になった頃から急に身長が伸び、フィジカルも一気に向上した。それまでとはまるで別世界のような感覚で、プレースタイルにも大きな変化があった。

高1では川崎市選抜止まりだったのに、高2では国体に選ばれ、関東選抜から全国選抜へとどんどんステップアップしていった。高校選手権では1回戦負けだったが、それでもプレーが評価され、高校選抜に入ることができた。その後はユース日本代表にも選ばれ、自分でも驚くほど順調に道が開けていった。

プロへの道

高校卒業後、プロの世界に進むことになった。正直、自分でも「何が起きているのかよくわからない」くらい、急展開だった。オファーの話が来た時も、先生に「オファーがあれば関東近辺に決めるつもりです」と伝えていた。

当時、スカウトの方々が練習や試合を見に来ることが増えていて、自分もその影響を強く感じていた。練習に行ったチームも多く、鹿島アントラーズや浦和レッズには行かなかったものの、多くのクラブが関心を持ってくれたのは本当にありがたいことだった。

中村俊輔が語る横浜マリノス加入の決め手

高校3年時のユースとプロ入りへの準備

高3になると、ユースに所属していたため、「プロの舞台に慣れるためにトップチームの環境でプレーしたい」という思いが強くなった。スカウトが視察に来ることも増え、プロのクラブで練習参加の機会を得ることができた。

そのため、高校の練習よりも、Jリーグのチームでの練習が中心になり、高校にはほとんどいない状態だった。当時は「サテライトリーグ」があり、トップチームに昇格できない若手選手たちがそこで試合を重ねていた。レベルの高い選手たちと練習しながらプロの環境を肌で感じることができたのは、すごく良い経験になった。

サテライトリーグとプロの世界への実感

実際に練習に参加してみると、チームによってスタイルが違い、「プロのサッカーとはこういうものなのか」と実感した。特にジェフユナイテッド千葉はボール回しが上手く、監督やコーチの指導も良かったため、「これがプロのレベルなんだ」と驚いた。

サテライトリーグで一番強いと感じたのはジュビロ磐田だった。帰りの新幹線で、対戦した選手のパンフレットを見たとき、福西崇史や奥大介といった選手が名を連ねていて、「この人たちがライバルになるんだな」と実感した。ジュビロの強さを肌で感じたことが、その後の自分の成長のきっかけにもなったと思う。

プロ入りへの決断

多くのJリーグチームからオファーを受けたが、どのクラブも「10番を用意する」などの期待をかけてくれた。だが、高校生の自分にとっては、その言葉がプレッシャーに感じる部分もあった。

最終的にどのクラブに行くか悩んだが、自分がジュニアユースの頃から知っている先輩たちが多くいるマリノスを選ぶことにした。「知っている選手たちと一緒にプレーしながら、揉まれながら成長していきたい」という気持ちが決め手になった。

また、中学時代に圧倒された選手たちと同じ舞台で戦うことは、自分にとって大きな挑戦だった。「この人たちを目標に、自分も成長しよう」と思い、その環境を選んだ。マリノスには一度も練習に行ってなかったけどマリノスに決めた。

以上「鈴木啓太チャンネル」まとめでした。中村俊輔さんの対談はまだまだ続きますので、ご期待ください。

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