【鈴木啓太ch・中村俊輔対談#3】セリエA・レッジーナ移籍の真実とワールドカップ敗退の要因に言及‼その詳細をまとめ

元サッカー日本代表であり浦和レッズで活躍された鈴木啓太さんが、自身のYouTubeチャンネルで元日本代表の中村俊輔さんと対談(2021/12/24公開)し、中村俊輔さんのセリエA・レッジーナ移籍の真実ワールドカップ敗退の要因を語っていましたので、その詳細をまとめました。

もくじ

セリエA・レッジーナ移籍のきっかけ

レッジーナ移籍のきっかけは、中田英寿さんの存在がすごく大きかった。彼がイタリアで活躍している姿を見て、自分も意識するようになった。

特に強く意識したのは、サンドニでのフランスとの親善試合で0-5で負けたとき。「このままでは世界の流れについていけない」と痛感した。オリンピックのときは「意外とやれるじゃん」と思ったけど、それは一時的なもので、実際には差が開いていた。もっと早く海外へ行くべきだったと感じた。

それで、ペルージャなども候補にあって、いくつかのチームと交渉した。でも、最終的にレッジーナの会長が「横浜のホテルまで来て、今すぐ決めてくれ」と言ってきたんです。「俺は明日の便で帰るから」と急かされました。

ただ、実際に行くとなると不安もあった。レッジーナは田舎の小さなクラブで、セリエBから昇格したばかり。でも、会長が熱心に誘ってくれたし、朝まで悩んだ末に「行きます」と決断しました。

自分も「早く海外に行かなきゃ」と思っていたので、あまり選んでいる余裕もなかった。レッジーナは積極的にオファーを出してくれたし、「10番をつけてほしい」とまで言ってくれた。それを聞いて、「ここでやるしかない」と決めた。

そして、いざイタリアに着くと、ミラノのホテルにはたくさんの記者がいて、「中田の次にすごい選手が来た!」みたいな大盛り上がりになっていました。それを見て、「えっ、そんな大げさな…?」と驚きましたね。東洋のバッジョみたいに騒がれていたのは、正直、ちょっと戸惑いました。

世界最高のリーグだった2000年代初頭のセリエA

ユベントスにいたトレゼゲデルピエロネドヴェドイブラヒモビッチなどは印象に残っている。

自分がプレーしていた当時のセリエAは、世界一のリーグでした。レベルがとても高くて、毎週の試合が本当に激しかった。特に中盤は、削り合いが当たり前。それに、イタリアのレフェリーはイエローカードの基準が全然違う。中盤でボールを持っていたら、どんなに激しく当たられてもファウルにならないことが多かった。

レッジーナは強いチームではなかったから、相手に押し込まれることも多かった。その中でどうやって試合を組み立てるか、どうやってチャンスを作るかが本当に大変だった。

セリエAで生き残るための処世術

前の方にくっつくのか、それとも終盤の後ろまで下がるのか、でも下がるのはありえないから、前の方でプレーするしかない。

ブラジル人のボランチにいい選手がいたのは本当に救いだった。普段から仲良くしていて、プライベートでも向こうの家族とご飯を食べたりしていた。

そういう関係があると、やっぱり信頼が生まれて、パスもスムーズに通る。間で立っていても、ちゃんとボールを入れてくれる。それは本当にありがたかった。

向こうで生き抜く術みたいなものを、こうやって話して学んだ。まったく相手にされないことだってあり得ると思う。パスが来ないとか、言葉が通じないから。だから、合宿中から自分から話しかけたり、要求したり、そうしないと存在感がなくなってしまうから。

日本史上最強の中盤“黄金のカルテット”

ジーコジャパンといえば「黄金の中盤」と言われていました。中田英寿小野伸二中村俊輔稲本潤一の4人が挙げられます。俊さんから見て、この3人はどんな選手でしたか?

僕にとってこの3人はライバルでしかなかったんですよ。チームメイトでありながら、競争相手でもある。「伸二がいいパスを出したな」と思ったら悔しいし、「やばい、俺もやらなきゃ!」って刺激を受ける。

ただ、伸二とはタイプを分けたら似ている。英寿さんはちょっと違う。フィジカルが強くて、ドリブルも上手かった。あの当時、あれだけのフィジカルでセリエAでも相手をなぎ倒しながら前に進むスタイルは、異常とも言えるほどだった。僕にはとても真似できないプレーだった。稲本さんはボランチだったから競争はなかったけど。

鈴木・中村が語るオシムジャパン

水を運ぶ選手」ってオシムさんがよく言っていけど、俊輔さんは実はよく分かっていなかった。鈴木啓太さんは、ボールを供給する側のこと、ボールのないところでどれだけ動けるか、そういうことだと考えていたようだ。

今になって思うのは、いつかは指導者をやりたいと思うから、もう少しオシム監督を理解するまでやりたかった。今でも、当時の練習内容をノートに書き留めていて、たまに見返します。「あれはどういう意図だったんだろう?」って考えることがありますね。

史上最強チームで臨んだ2006年ドイツW

2006年、初めてワールドカップに出場しましたが、その大会にかける意気込みはやはり大きかった。

背番号もいい番号をもらって、ジーコからの信頼を感じていた。前回の大会ではメンバー入りできなかったこともあって、より強い気持ちがあった。

オーストラリア戦ではゴールを決めたが、逆転負けを喫した。チーム全体として戦う姿勢やまとまりに欠けていた部分があったのかもしれない。今振り返ると「本当に言い合える集団ではなかったのかもしれない」と思う。

ワールドカップ2006年 日本代表まとめ

2006年ドイツ大会に出場した日本代表は、ジーコ監督のもと「黄金の中盤」と呼ばれる選手たちを中心に戦いました。グループFで オーストラリア、クロアチア、ブラジル と対戦。

  • オーストラリア戦:中村俊輔のゴールで先制するも、終盤に3失点し逆転負け(1-3)。
  • クロアチア戦:川口能活のPKセーブで引き分け(0-0)。
  • ブラジル戦:玉田圭司のゴールで先制するも、逆転され敗戦(1-4)。

1分2敗でグループリーグ敗退。チームは個々の技術は高かったものの、組織力や勝負強さに課題を残した大会。

下馬評を覆した2010年南アフリカW杯前の雰囲気

2010年のワールドカップの時は、川口能活さんをはじめベテラン選手がいて、大会前に韓国戦を戦ってそこで負けてしまい、南アフリカ行ってからもうまくいかなかった。

チームの中で椅子を丸くして「こういう戦い方をしよう」と意識を統一し、みんなで同じ方向を向けたことが大きかった。闘莉王が、当時の俺たちは「弱い」「小粒の集団」だ、甘い考えのまま戦っても勝てるわけがない。死にものぐるいでプレーすることが大事だと。技術どうこうよりも、下手なりのサッカーをしなければダメだと言っていた。

それを各々が考えて、次の試合から実践していこうと話した。そして迎えた親善試合、イングランド戦では1-2で負け、コートジボワールにも負けはしたものの、手応えを感じた試合だった。

その手応えは、フォーメーションがハマったとか、単純な理由ではなく、それ以上に「やってやろう」という雰囲気がチームの中に生まれていた。岡田監督もそのことを強調していたと思います。僕もベンチだったけど、外から見ていてもチームの変化を感じた。

ワールドカップ2010年 日本代表まとめ

2010年南アフリカ大会の日本代表は、岡田武史監督のもと 「守備を固めた堅実な戦い方」 で挑みました。グループEで カメルーン、オランダ、デンマーク と対戦。

  • カメルーン戦:本田圭佑のゴールで 1-0 勝利。
  • オランダ戦:堅守で粘るもスナイデルのゴールで 0-1 敗戦。
  • デンマーク戦:本田圭佑&遠藤保仁のFKでリードし 3-1 勝利、決勝トーナメント進出!

決勝トーナメント パラグアイ戦:0-0のままPK戦へ。惜しくも PK 3-5 で敗退。
結果:ベスト16進出(海外開催で初のグループ突破)堅守速攻の戦術とチームの団結力が光った大会。

中村俊輔が感じる2006W杯と2010W杯の違い

チームの強さだけで言えば、2006年のほうが上だったと思う。選手のクオリティを考えると、間違いなくそうだと思う。

でも、ワールドカップでは基本的に自分たちより強いチームと戦うことになる。そうなったときに、0-1や0-2の状況でも、全くメンタルが揺るがない集団でなければならない。そして、そこから1点を取り、さらにもう1点を取って、何なら逆転できるような力や雰囲気を自分たちで作り出せるかどうかが重要。

2010年のチームは、岡田監督をはじめ、最終的には自分たち自身でそういう雰囲気を作ることができた。それがすごく良かった。

鈴木啓太が語るW杯2010年への想い

啓太はワールドカップには行けなかった。代表に呼んでくれたオシム監督のもとでプレーしていたとしても、ワールドカップメンバーに入れたかどうかはわからないと思う。

2006年のワールドカップは、自分にとって未知の世界だった。でも、2010年は途中まで一緒に戦ってきた仲間がピッチに立っていたから、悔しい気持ちもあった半面、それ以上に強く応援した。

以上「鈴木啓太チャンネル」まとめでした。中村俊輔さんの対談は#5まで続きます。

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